わたしは夢中で夢をみた

失敗しても、回り道しても、全然OK!

小さな小さな出版社が誕生するまでの物語

まさ出版チーフプロデューサー

支援学校教師

安井雅子(Yasui Masako)

プロローグ

ワクワクすることだけやる!

神奈川県川崎市で、まさ出版という小さな小さな出版社を運営しています。メンバーは子育て中のお父さんやお母さんが中心で、他の職業を持つ「複業アーティスト」です。まさ出版の方針はただ1つ、

 

ワクワクすることだけやる!

 

活動のペースはゆっくり、のんびり。一歩一歩、亀の歩みではありますが、少しずつ前に進んできました。今回の講演では、出版社が誕生するまでの道のりを振り返りながら、「夢を叶えるためには、いろんな選択肢がある」ということをお伝えしたいと思っています。


    目次
プロローグ ワクワクすることだけやる!
第1章 高校、大学。そしてテレビ局へ
第2章 出版社への転職。憧れの雑誌で編集者になる
第3章 小さな小さな出版社の誕生
第4章 特別支援学校の教師になる
第5章 二足のワラジ
質問コーナー 夢を叶えるために必要なこと
エピローグ 心に虹がかかりますように 


第1章

高校、大学。そしてテレビ局へ

おはようございます! 安井雅子と申します。東筑の90期生です。まず、簡単に自己紹介をしますね。私は神奈川県川崎市で、「まさ出版」という出版社を運営しています。そしてもうひとつ別の顔もあって、神奈川県立支援学校の教師をしています。教師として毎日仕事をしながら、出版社では絵本や紙芝居を制作するという、2足のワラジ生活です。絵本は、川崎市内の小学校や図書館に置いていただいたり、プロの劇団が絵本のストーリーをもとにしたミュージカルを開催したりして、地域の人たちに親しまれています。

 

でも、ほんの数年前までは、今自分がこんなことをしているとは思いもしませんでした。出版社をたちあげることも、教師になることも、私も周囲の人たちも、まったく想像していなかったんです。

 

社会人として、最初に就職したのはテレビ局です。地元のNHK北九州放送局で、ニュースの原稿を書いたり、レポーターをしたり、ニュース番組の制作スタッフとして働きました。以後20年以上マスコミの世界で、雑誌や広告の編集者、ライターとして活動しました。それがどうして、今ような人生を選ぶことになったのか。

 

高校生の皆さんは、これから進学や就職など、いろんな場面で人生の選択をしていくことと思います。今回の講演では、これまでの道のりを振り返りながら「夢を叶えるためには、いろんな選択肢がある」ということをお伝えできるといいなと思っています。

 

「そで振り合うも他生の縁」と言いますが、振り返ってみると本当にそのとおりで、不思議なご縁に導かれるようにしてここまでやってきました。こうして皆さんと少しの時間、ご一緒するのも大切なご縁ですから、ひとつでも、皆さんの心に残る言葉があるといいなと思っています。

 

 

 

高校時代の夢は、お医者さんになることでした。わりと子供のころから自立心が強くて、手に職をつけたいと思ったんです。でも、部活ばかりして勉強は底辺をさまよう成績でした。大学受験一年目は、当然不合格。浪人してもう一度チャレンジしましたが、またまた不合格。けっきょく目指していた学部とはまったく違う分野でしたが、後期試験ですべりこんだ福岡教育大学の教育学部家庭科に入学しました。

 

なぜ医学部から家庭科にしたかというと、父にすすめられたからです。「家庭科だったら、栄養や健康のことも勉強できるから、医学部と似てるぞ」と言われて「あら、それもおもしろそうね」と。浪人までして目指した夢に破れたわけですけど、私の特技はとにかく気持ちの切り替えが早いことなんです。そうと決まったら、あっさり方向転換して、今度は教師を目指すことにしました。

 

大学の4年間は、探検部に入って洞窟を探検したり、カフェでアルバイトをしたり、ダンスにはまってミュージカルの本場、ニューヨークのブロードウェイでレッスンを受けたり、勉強よりも好きなことを一生懸命して充実していました。あっという間に4年生になり、いざ就職ということになって、またもや失敗するんです。教員の採用試験を受けましたが、不合格。こうやって振り返ってみると、我ながらよく失敗していますね。進学も就職もこけてばかりです。七転び八起きどころじゃない、これまでの人生で少なくとも100回以上、それもかなり派手に転んでいます。

 

全部話していたら日が暮れそうなのでやめておきますが、私の経験からひとつだけ言えるのは、皆さん、失敗が怖いとか、失敗したらもうダメだと思うこともあるかもしれませんが、失敗もけっして悪いことではないんですよ。ムダなことはひとつもなくて、すべての経験が次につながっている。回り道と思うことも、必ずどこかで生きて、これで良かったと思える日が来ます。数え切れないほどの失敗があったからこそ、今の自分があるんだと思っています。

 

話がちょっとそれましたが、教員採用試験に落ちて、さてこれからどうしようかと思っていたところ、大学の友だちが、「NHKでキャスターの募集をしてたよ。受けてみたら?」と教えてくれたんです。テレビを見ていて、たまたま募集のコーナーが目に入ったそうです。

 

 

 

まさか自分がマスコミの世界に飛び込むとは思ってもみませんでしたが、華やかなイメージで漠然とした憧れはありました。万が一受かればもうけものという軽い気持ちで応募したものの、オーディションの会場に到着したとたん、これはとんでもなく場違いな場所に来てしまったと後悔しました。キャスターに応募しようという方たちですから、美人でスタイルもよくて、ファッションも洗練されている人たちばかりです。さらに、ニュースの原稿を読むカメラテストがあるんですが、もともとアナウンサー志望で専門のスクールに通っていたり、大学で放送部だったり、今すぐプロになれるくらいナレーションがうまいんです。数日前に思い立ってのこのこやって来た田舎者ものまるだしの私は、赤っ恥をかいてすごすご帰ってきました。

 

ところが、人生何が幸いするか分からないものです。上手な人たちがゴロゴロいる中で、一人だけ飛び抜けて下手だったのが、かえって目立ったようで、キャスターには不合格でしたが、特別枠で編集スタッフとして雇っていただきました。後で採用を担当した方に聞いたのですが「一生懸命さ」をかっていただいたようです。のちに、ライターとして雑誌や広告でたくさん仕事をさせていただくようになってからも、文章がうまいというより一生懸命なところをほめられるので、ライターとして喜んでいいのかよくわからないのですが……、私の長所なんだなと思っています。

 

 

 

テレビ局の仕事は、今から思うと本当に貴重な体験でした。昨日までテレビ画面の中で見ていた人が、隣のデスクに座っていて、ニュース番組がどんなふうに制作されているのか、報道の第一線で活躍するプロの仕事を間近で見ることができました。企画の立て方や編集の技術だけではなく、仕事に対する姿勢など、ここで見聞きしたことが将来の方向性を決定づけたような気がします。

 

テレビ局に入って最初の仕事はいわゆる「雑用がかり」です。編集した映像が収録されたカセットテープを放送する順番に並べたり、放送中はそのテープをプレイヤーにセットしたり、放送後にテープのデータを消去したり、、、。取材で各地を飛び回ってバリバリ働く人たちを間近で見ているうちに、私もあんなふうな仕事がしたいと強く思うようになりました。

 

転機は、入社してから数ヶ月たったころやってきました。ニュース番組の中で、視聴者が撮影したビデオを紹介する「てれびポスト」というコーナーがあって、お世話になっていた上司から、それを担当してもらえないかと頼まれたのです。またとないチャンスと、二つ返事で引き受けました。

 

 

番組の中では目立たない小さなコーナーだったのですが、私にとってはやっとまわってきた大チャンスですから、張り切りました。ビデオを送ってくれた視聴者の方に電話をかけて話を聞き、原稿を作成します。勤務時間内に終わらなかったので、休日も原稿のことを考えていましたね。私が就職した1997年当時はインターネットも普及していなかったので(今では考えられませんよね)、地元のお祭りの話題なら休日に図書館に行って調べました。何気ないお祭りや農作業の一コマも、投稿してくださった方と話したり資料を読んだりして、背景を知るととすごく面白いんです。たとえば、お祭りの映像だったら、その地域は過疎化が問題になっていて、祭りに参加した若者は、ほとんど都会から帰省した人たちで、年に一度のお祭りで地域に活気を取り戻そうという地域の方たちの願いがこめられていたり。田んぼでアイガモが泳いでいる映像が届いたときは、有機農法に取り組んでいる農家の方の話がおもしろくて、たった1分間のコーナーなのに、30分特番並みの長文の原稿を書いて、上司がのけぞってました(笑)。そりゃそうですよね、アイガモがピヨピヨ泳いでいるだけのシーンなのに、まったく映像には登場しない農家の人の話をえんえんとするわけですから。もちろん、その超大作の99%は、本番の放送でばっさりカットされましたが、これをきっかけに、徐々にてれびポスト以外のニュースも担当させてもらえるようになりました。


てれびポストの取材で掘り下げたいテーマを見つけて、企画を提案しました。老舗の酒屋が生き残りをかけて商品開発に取り組んだ洞窟で熟成させた洞窟酒、高齢化が進む漁業の街で取り組んでいる赤貝の養殖、ママたちが運営する出版社、70歳以上のメンバーたちが運営する野球部など、北九州放送局で制作した内容が評判になり、全国放送で採用された企画もあります。原稿を書くだけでなく、レポーターとして画面に登場する機会も増えました。就職した当時には想像もしなかった夢が叶っていました。

第2章

出版社への転職。憧れの雑誌で編集者になる

3年くらいたったころ、今度は次の夢が見えてきました。テレビ局で働きながら、自分が得意なことは文章ということがはっきり分かったのです。テレビは映像が主役なので、原稿がメインの出版業界に行きたいと考えるようになりました。

 

そうは思ったものの、一般的な就職活動というものをやったことがない私は、どうやって出版の仕事を見つければいいのか分かりません。当時は今ほどインターネットの情報もありません。

 

 

 

どうしたかというと、近所の本屋さんに行きました。店内をぶらぶら歩いているうちに、ふと1冊の本が目にとまりました。物作りをしている職人さん100人に取材してまとめた本でした。直感的に「この本を作った会社に入りたい」と感じ、その日のうちに出版社に手紙を書きました。東京の小さな出版社だったのですが、電話がかかってきて面接を受けて、そこからトントン拍子で数ヶ月後に、転職することになりました。26歳まで北九州を出たことがなかった私が、右も左も分からないまま東京へひとりで旅立ったのです。念願の出版業界で働けると意気揚々と上京しましたが、出だしから大きな壁にぶつかりました。就職した会社がメインで制作していたのは、投資をテーマにした金融の専門誌だったのですが、働き始めてから徐々に、経済の分野には、まったく興味を持てないことが分かりました。興味があることには百馬力のエネルギーが出るのですが、興味がないことには、いくら頑張ろうとしてもまったく力がわきません。体調も崩して2年くらいで退職することになりました。仕事も自信も失って、挫折感でいっぱいでした。

 

もう出版の世界とは関係のないことをしようと思い、事務系の仕事を希望していましたが、けっきょくご縁があったのは、料理雑誌を作っている出版社「オレンジページ」でした。

 

 

 

子供のころから本屋や美容院などいろんなところで目にしていた雑誌だったので親近感はあったものの、まさか自分がこの雑誌で文章を書くことになろうとは、当時は夢にも思っていませんでした。

 

出版社で最初に配属されたのは、健康をテーマにした雑誌でした。お医者さんになる夢はいったん諦めたけれど、心と体の健康に関わる仕事に携わることができたという意味では、学生時代の夢を別の形で叶えたことになりますね。むしろ、そそっかしくて、手先が不器用な私は、お医者さんよりこっちの方が合っていたような気がします。

 

今までの人生で、こういうことは何度もあって、希望していた方に行けなかったけど、後から振り返るとこっちの道で良かったということがたくさんあります。ですから、希望した方に行けなくても「別の道へ行けっていうことなのね」と考えることにしています。夢や目標に向かって自分なりにベストは尽くしますが、それでダメなら、はい次! またダメでも、はい次! 何度も転んでいるうちに、だんだん立ち上がるスピードも早くなってきました。いつもそんな調子ですから、友人に「超ポジティブだね」と言われています。

 

さて、雑誌社の話に戻りますと、今度は興味のある分野だったので、とてもやりがいがありました。初めて提案した企画は、「季節のカラーセラピー」というタイトルでした。優しい気持ちになるピンク、心を落ち着かせ集中力を高める青など、色が心理に影響を及ぼすことは、当時は今ほど知られていなかったので、新しい切り口がおもしろいということで、雑誌の巻頭ページに採用され、長く連載が続きました。


その後結婚、出産を機に独立して、フリーランスのライターになり、マスコミの世界に入ってから足かけ20年以上、文章を書く仕事を続けることになります。出版社時代にお世話になった編集者の方たちから声をかけていただいて、雑誌だけではなく、新聞や広告、WEB、教科書の副教材など、幅広い分野で仕事をさせていただきました。ライターが唯一の天職と信じていましたし、この先も一生続けていくものと疑いもしなかったのですが、再び転機が訪れます。3人目の子供の出産です。40歳のときでした。

第3章

小さな小さな出版社の誕生

この時は、新聞の連載を抱えていたこともあって、出産前日まで働き、退院後すぐに仕事をスタート。娘が5ヶ月の時、まだ離乳食もスタートしていないころ、保育園に入園しました。これまでと同じように仕事を続けようと思っていましたが、いきなり壁にぶつかりました。 一番困ったのは、子供が病気になったときです。まだ抵抗力が弱い赤ちゃんなので、いろんな病気にかかります。取材や撮影の現場は、たくさんのスタッフがそれぞれ専門の持ち場で動いていて、急に子供が熱を出したからといって誰かに変わってもらうことはできません。忙しい夫には頼れず、病気の子供を預かってくれる施設に、わらにもすがる思いで電話してもキャンセル待ち。娘が風邪をひいたとき、腹痛で学校を休んでいた小学生の長男に世話を頼んで、撮影に出かけたこともあります。さらに、これは友人の間で伝説になっているのですが、通りがかりの年配の女性に娘の世話を頼んだこともあります。幸いにもすごくいい方で、その後もお付き合いが続くことになりましたが、大切な子供をよく知らない人に頼むなんて、普通では考えられません。それくらいせっぱつまっていました。毎日が綱渡りの状態で、積もり積もったストレスがいつのまにか限界を超えていました。

 

お母さんが子育てをしながら生き生きと働ける方法はないかと模索するなかで、2017年に立ち上げたのがまさ出版です。

 

 

 

雑誌や新聞の企画は、発注から締め切りまでの期間が短いので、本の制作ならじっくり長い期間をかけて制作できると考えたのです。長いスパンで取り組むことができれば、子供が病気になってもスケジュールを調整できます。

 

最初は、手芸の先生や外務省の元官僚など、知り合いの紹介で自費出版のお手伝いをすることからスタートしました。こうした活動の中で、たまたま地域で活動するNPO法人の方と知り合い、舞い込んできたのが、川崎市幸区の地域活性化プロジェクトです。これがきっかけとなり、新たな夢と出会うことになります。

 

このプロジェクトでは、「地域の魅力を発信するパンフレット」を制作することになりました。それまでは、役所で制作するパンフレットといえば、地域の施設や自然を紹介するものが一般的だったのですが、企画書を書く段階になって、なにかしっくりこないんです。今は知りたい情報があれば、スマホであっという間に検索できます。地域の魅力を多くの人たちに伝えるために、何か違う方法はないかと考えていたところ、保育園のママ友だちが「絵本を作ったらどう?」と提案してくれました。

 

絵本というアイデアに、「これだ!」とピンときましたね。役所の担当者に話したら、「それはおもしろい」ということで、地域の人たちも巻き込んで絵本のプロジェクトチームが発足しました。物語の舞台は、いくつかの候補の中から、夢見ヶ崎動物公園というところに決定しました。

 

 

 

夢見ヶ崎動物公園と言っても皆さんは知りませんよね。北九州でいうと到津の森公園みたいなところです。私も子供のころ、よく遠足で行きました。夏休みの林間学校は、今でも記憶に残っています。夢見ヶ崎動物公園も、到津と同じように森の豊かな自然の中に動物たちがいて、市民の憩いの場になっています。

 

最初は、夢見ヶ崎動物公園で飼育されている動物たちを主役にした物語にしようと考えていましたが、公園のことを調べていくうちに、おもしろい事実を知りました。動物園は加瀬山という山の中にあるんですが、じつは、このあたりの歴史は縄文時代までさかのぼり、なんと辺り一面海だったそうです。加瀬山の頂上は、海にぽっかり浮かぶ島で、材木や塩を運ぶ物流の拠点として栄えていました。今も海だったころの貝殻がたくさん見つかりますし、園内にはいくつもの古墳があります。川崎が工業都市として発展したことは教科書にものっている有名な話ですが、それ以前に壮大な歴史があることは、じつは地元でもほとんど知られていません。そこで、地域の歴史をテーマにした物語を作ることにしました。

 

 

 

夢見ヶ崎動物公園に住んでいるノラネコのブサと一緒に、不思議な形をした木のトンネルに入ると、大昔にタイムスリップするストーリーです。物語を制作する際には、地元の歴史に詳しい郷土史家の方にお話を伺いました。

 木のトンネルをはじめ、街を見渡せる展望台や森の小道など、絵本に出てくるシーンはすべて、動物公園の実際の風景をモチーフにしています。街の魅力を発信する仕事は、今まで関わってきた雑誌や新聞とはまったく違う分野でしたが、おもしろいと感じた一点をピックアップして大きく膨らませるという、今まで培ってきた編集の技術が役立ちました。

 

絵本『ゆめみがさきのふしぎにゃトンネル』が完成すると、なんだか珍しい絵本ができたぞということで、地元の新聞やテレビ、タウン誌など、さまざまなメディアで取り上げていただきました。そのおかげで、最初は小さな小冊子で発行したのですが、増刷を重ね、ハードカバーの立派な絵本や紙芝居になり、読み聞かせイベント用の大型絵本もできました。今では地元の小学校や幼稚園、保育園、図書館、児童館、カフェ、商店街のお店にも置かれています。



 私たちの仕事は、絵本を作ったら、それでおしまいというわけではありません。絵本の制作は出発点で、むしろここからが本番。絵本というツールを使って、人と人の輪を広げ、地域の魅力を発信することが目標です。

 

次の年は、地元のお祭りやイベントの会場、郷土史を研究する会などに出向いて、絵本の読み聞かせ会を開きました。さらに、プロの劇団や紙芝居師さんによる本格的なミュージカル、絵本の原画や歴史を展示した絵本展などのイベントが行われました。メインのキャラクターであるノラネコのブサは、動物園の案内看板や地図、コロナ渦では手洗いポスターやマスク、商店街のシャッターにまで登場して、地域の人たちに親しまれるようになりました。

 

最近耳にしたのですが、動物園の近所の小学校では、遠足で物語の舞台となったトンネルを見に行ったり、絵本を研究授業の題材として採用していただいているそうです。もうすでに、絵本は作者の手から離れて転がり始めているんだなあと嬉しく思いました。

 

 

 

でもそれだけではないんです。この絵本プロジェクトは、私の人生にとっても、方向を決定づける大きなきっかけになりました。『ふしぎにゃトンネル』の絵は、繊細な風景の描写や迫力のある色使いから、プロのイラストレーターによる作品と見られるんですが、じつは、絵を担当した「あず」は、20年間絵筆を握っていなかったという主婦です。ふだんは、3人の子供を育てながら絵とはまったく関係のないパートの仕事をしています。子供のころは絵を描くのが大好きで、絵本作家になりたいという夢を持っていました。でも、学校を卒業後、仕事や子育てに追われているうちに、絵を描くことから遠のき、いつの間にか夢を忘れ去っていたそうです。あずは、娘が通う保育園のママ友で、ある日、ふとした会話の中で、子供のときの夢の話を聞きました。「じゃあ今からでも絵本を作ればいいじゃない」、そんななにげない会話がきっかけとなり『ふしぎにゃトンネル』が誕生したというワケです。心の奥底に埋もれていた夢を思い出したあずは、顔がツルツル、目がキラキラして、どんどんきれいになったんです。保育園にお迎えに行った帰り道、新しく完成した絵を私に見せながらこう言いました。「仕事の合間にずっと絵のことを考えてた。こんなふうに描こうってアイデアがわきまくって、頭からずっと離れない。食事も風呂も、他のことは全部忘れちゃってた。早く描きたくて楽しくて楽しくて」。私は慣れない絵本作りで、とにかく大変なことの連続だったんですが、あずのこの言葉を聞いて、もうこれだけでやったかいがあったなと思いました。夢ってこんなに人を輝かせるものなんだと、才能が花開く瞬間を目の当たりにして、鳥肌が立つくらい感動し、今まで感じたことのない温かい何かで心が満たされるのを感じました。まわりの人が幸せになると、自分もハッピーになるということに、この時気づいたんです。

 

すると今度は、自分がライターとして社会のなかで何をしていくべきかという、使命がおのずと見えてきました。埋もれている才能を発掘し、人と人の才能をつないで、社会の役に立つ作品を生み出すこと。それが、自分の使命なのだと確信しました。

 

 

 

『ゆめみがさきのふしぎにゃトンネル』を制作したあと、プラスチックごみの問題をテーマにした『Crystal Blue』、食品ロスをテーマにした『やおよろずの神様』という絵本を手がけました。

『Crystal Blue』

『Crystal Blue』

『やおよろずの神様』


クリスタルブルーは、神奈川県鎌倉市の海岸にシロナガスクジラの赤ちゃんが打ち上げられ、胃の中からプラスチックごみが発見されたという実話をもとにした物語です。たまたまインターネットのニュースで見て、次の作品はこれだとひらめいたのです。母クジラの目線から描いた『Crystal Blue Mother』、子クジラの目線から描いた『Crystal Blue Baby』の2部作で、何度読み返しても涙が出ます。心に響く作品が生まれたという手応えを感じています。

第4章

特別支援学校の教師になる

まさ出版の夢に共感してくれる人、仕事を手伝ってくれる人も増え、これからという時に、またまた予想外の転機が訪れます。支援学校の教師として働くことになったのです。2019年のことでした。

 

これまで幾度となく大きな転機があり、周りの人を驚かせてきたのですが、今回は、まったく畑違いの分野ですから、今までの中でもっとも周囲の反応が大きかったです。私が教員免許を持っていることすら知らなかったまさ出版のメンバーはもちろん、ライターとして長年仕事を一緒にしてきた出版社の編集者や友人は、「まさかウソでしょう……?」と最初は信じてくれませんでした。一番衝撃が大きかったのは家族です。ある日、夕食を食べながら「お母さん、先生をすることになりました」と事後報告ですから。ふだんは温厚な夫が「何を言っているんだ」とさすがに怒っていました。「この年で慣れない仕事を始めて、いきなりフルタイムで働くなんて体のことが心配」と、家族や両親は最後まで反対していましたが、一度言い出したら聞かない性分なのは十分分かっているので、しぶしぶながら応援してくれることになりました。

 

なぜ教師になったかということなんですが、じつはその数年前から妹にすすめられていたのです。妹は私とは正反対のしっかりもので、子供のころから私は姉らしいことは何ひとつしたことがなくて、逆に世話になってばかりいるんですが、私が仕事と育児の両立に悩んでいたとき、突然「おねえちゃん、教師になったら?」と言うのです。小さなお子さんがいる妹の友人が、40歳をすぎてから支援学校に転職して、その友人の話を聞いているうちに、私にぴったりの仕事だと感じたのだそうです。そのときは「まっさか~」と笑っていたのですが、ずいぶん時間がたったこのタイミングで妹の言葉をふと思い出しました。そして、この時は自然に「やってみようかな」と感じたのです。

 

私が人生の選択をするときは、いつもそうで、頭で理由をあれこれ考えず、直感で動きます。なんとなく「おもしろそう」とか「ハッピー」と感じる方向へ動くと、エネルギーがわくし、うまくいくような気がするのです。いろいろ考えすぎると「もうこんな年だから無理」とか「経験がないからうまくいくはずがない」とか、いくらでも心配の種が出てきて前に進めません。直感で動いて、ダメなら軌道修正すればいいと思っています。

 

まさ出版の仕事と並行して、雑誌ライターの仕事も続けていたのですが、いったんすべてをお休みして教師の仕事をスタートしました。もちろん、ライターの仕事は、いったん手放したら再開できる保障はありません。私は行動力があるほうだと思われていますが、新しい世界に飛び込むときはいつも不安でドキドキします。このときも、足をがくがくさせながら、思い切ってジャンプしました。

 

 

 

さて教師になってみてどうだったかと言うと、周りの皆さんの予想に反して3年続いています。これには、自分が一番びっくりしました。大変な職業というウワサは耳にしていたのですが、実際にやってみると、もちろん大変なことはいろいろあるものの、妹が思ったとおり、私の性分に意外と合っていたのです。

 

それから、これは転職して初めて知ったことですが、支援学校では1クラスに担任が2~3人いて、チームで動いています。ですから、子どもが病気になったときでも、何か突発的なことが起こったときでも、お互いさまという感じで支え合って乗り切っています。

 

この経験からつくづく思ったのは、どんな仕事が自分に合っているのか。それは実際にやってみて初めて分かるものなんだ、ということです。頭の中であーでもない、こうでもないと考えるだけでは答えは出ません。皆さんの中には、「自分が何をやりたいのか分からない」という人もいるかもしれませんね。でもそれでいいんです。焦る必要はまったくありません。よくビジョンが大切と言いますが、私自身、やりたいことが明確にあったわけではなく、まず、今の自分にできること、目の前にあることをやってみる。そこで出会った人とつながっていくうちに、自分に向いていることや、やりたいことが見えてくるんだと思います。

第5章

二足のワラジ

講演の最初でも触れましたが、私は出会った方とのご縁に導かれるようにして、ここまでやってきました。テレビ局や出版社のときにお世話になった方には、今もさまざまな形でサポートしていただいています。絵本を制作したときは、出版社時代の友人が、ストーリーの構成についてアドバイスをしてくれましたし、完成した後の読み聞かせ会では、NHK時代にキャスターをしていた先輩が、ナレーションを担当してくださいました。

今回の講演も、東筑のときの友人に声をかけていただきました。3ヶ月くらい前に「まあちゃん、今までのことを話してくれん?」と、LINEがきたんです。私は、仕事でも何でも頼みごとがきたら、まず「YES」と答えることにしています。YESと答えた後で、さてどうしようかと、そこから考えるわけです。

 

今回も、引き受けてしまった後で、はて困ったとなりました。まず人前で話すのが苦手で、4人以上の場に出ると固まるし、今までのことを話すと言っても、失敗ばかりで参考になるような生き方ではなさそうだし、、、とぼやいていたら、「まあちゃんは、はたから見よっておもしろいけん、そのまんま話せばいいっちゃ」ということで、参考になるかどうかはさておき、そのまんまお話することにしました。

 

高校時代の友人と筆者近影(右)


他の友人や先輩に聞いても、やはり同じような意見で「会うたびに想像をこえてくる」とか、「予想外の展開で、見てて飽きない」と、まるで連続テレビドラマの感想のような意見もありましたが……(笑)。自分のことは客観的に見えないものですね。目の前に転がってきたことを一生懸命やってきただけで、いたって普通の人生と思っていたんですけど、他の人の目から見ると、どうやらおもしろいらしいと、これは新たな発見でした。それから、今まで自分がたどってきた道を振り返ったことは、貴重な経験になりました。あらためて人のご縁でここまでやってきたんだなと深い感謝の気持ちがわきましたし、自分の使命というか、進みたい方向を確認することにつながりました。

 

まさ出版のほうは、私が支援学校の教師を始めたことから、「福祉」という新たな分野が加わって、仕事の幅が広がりました。NECの社員向けホームページの記事を制作したり、今年に入ってからは、さらに新たなプロジェクトに取り組んでいます。障害者と健常者がタッグを組んだオリジナルブランドを作りたいと考え、そのコンテンツをスタッフと一緒に開発しているところです。ボランティアではなく、埋もれた才能を発掘して、雇用を生み出すことを目指しています。

 


私の一日は、朝5時前に起きて、家族5人分の朝昼晩の食事づくりから始まります。子供は上二人が食べ盛りの大学生と高校生なので、けっこうな量なんですけど、その後は、平日昼間は教師の仕事、休日は小学生の娘と公園で遊んで、夜は9時前にはバタンキューです。まさ出版の仕事は、まとまった時間がとれないので、家事や育児の合間に、コツコツしています。


スタッフとの打ち合わせは、休日に子連れで公園に行ってピクニックをしながら。原稿は、玉ねぎを刻みながらとか、子供を公園で遊ばせながら、思いついた文章をメモして、子供の学校のプリントやレシートの裏とか、ピクニックでパンを買ったときの紙袋とか、とりあえずそのへんにある紙に書きこんで、後からそのメモの順番を入れ替えて、接続詞を入れて仕上げます。

 

意外なことに、教師を始めてからのほうが、まさ出版の活動もスムーズに進むようになりました。以前は何でも自分でやらなければと仕事を抱え込みがちだったのですが、今は時間が限られているので、他のメンバーにお願いせざるをえません。企画、プレゼン、書類など、それぞれが得意分野を担当しています。教師とまさ出版、2つの仕事が、お互いにいい影響を与え合っていて、今は、この「二足のワラジ」スタイルが心地良いです。


 

 

 

そろそろ終わりの時間が近づいてきました。最後に、皆さんにひとつだけお伝えしたいメッセージがあります。講演の中でも繰り返しお話しましたが、大きな失敗をしても、どうにもならないと悩んでいることでも、必ずなんとかなるということです。ほんとになんとかなります。「幸せになるための選択肢は、ひとつじゃなくて、たくさんある」。そのことを、ぜひ心にとめておいてください。これからの皆さん一人一人の人生が、幸せと希望で満たされていますように、心から願っています。本日は、ご静聴ありがとうございました。

質問コーナー

夢を叶えるために必要なこと

 私には、目標や夢というものがないんですが、どうやったら見つかりますか?

 

 今すでに目標がある人は素晴らしいと思いますが、なくても、すぐ見つけようと焦る必要はないと思いますよ。私は高校の時に医者になりたいと思っていたのですが、親は会社員で、身近な職業と言えば、教師や医者、銀行員くらいです。今思えば、そもそも知っている職業が少なかったんですね。

 

私の場合、とりあえず目の前にある今できることをやったら、次のひとつが見えて、それを一生懸命やったら、また次のひとつが見えて、という感じで自分の進むべき道を選んできました。自分が何に向いているのか、それは実際にやってみないと分かりません。まず飛び込んで体験すると、そこで自分に向いていることやこれからやってみたいことが自然に見えてきます。

 

 

「夢はどうやったら見つかるか」ということについては、「夢」というと、何か大きなことというイメージがありますよね。夢がまだないと思っている人は、なんとなく「おもしろそうだな」とか「ハッピーな気持ちになる」「ワクワクする」と思うことをしてみてください。たとえば、お菓子が好きな人は、コンビニで新作スイーツが発売されたら、それを買ってティータイムを楽しむ。その時間を楽しむことだけで十分なんですが、さらに、自分でも作ってみる。自分の好みの味を研究して、家族にごちそうする、お友達にプレゼントするとか。「好き」を掘り下げて、自分のオリジナリティを極めることがポイントです。進学や就職に有利とか損得ではなく、「好き」と感じる気持ちを大切にしてくださいね。まずは、身近な好きなことをやってみることから。それがいつのまにか大きな夢に育っていきます。

 


 教師の副業はNGと聞いたことがあるのですが、2足のワラジはOKなんでしょうか。

 

 副業は基本NGです。私は最初フルタイム勤務だったので、他の仕事はいったんすべてやめました。2年目からは、非常勤勤務に切り替えたので、そこからは副業OKになりました。学校には、書類を提出して副業の許可を得ています。


 あれこれ考え込んでしまう性格で辛いのですが、どうしたらよいでしょうか。

 

 私も最初からあまり考えない性格だったわけではなくて、もとの性格は、あれこれ考え込んでしまうタイプです。深く考えることは、自分とちゃんと向き合っているということで、けっして悪いことではないんですよ。ただ、考えすぎてネガティブになってしまうときもありますよね。そんなときは、何か他のことに熱中することにしています。勉強でも仕事でも、部活でも趣味でも、何でもいいんですが、他のことをしているうちに、いつの間にか落ち込んだ気持ちを忘れています。流れる雲のように放っておけば、いずれどこかへ行ってしまいます。


 理科の教師を目指しています。支援学校で、専門の教科の先生になれますか?

 

 専門の教科というのは、とくにないのですが、支援学校では、体育、美術(図工)、音楽の授業があります。私は中学、高校の家庭科の資格を持っていますが、理科の教員資格を持っている方も支援学校の教師になれます。理科の専門知識は、支援学校の教育でも役立ちます。


 偏差値の高い大学に行ったほうがいいですか?

 

 難しい質問ですね(笑)。友人たちを見ていても、どの大学に行ったら幸せになる、ということは言えないと思います。ご縁のある大学に行って、そこで何をするか。そのほうが重要ではないでしょうか。


 ポジティブになるには、どうしたらいいですか?

 

 私の場合、最初からポジティブだったわけではなく、後天的に身についたものです。失敗しても、こっちのほうが良かったという経験を積み重ねているうちに、ポジティブ思考になってきました。私も人間ですから、当然落ち込むこともあります。でも、無理に立ち直ろうとせず、ゆっくり気が済むまで落ち込んで(笑)、自然に立ち直るのを待ちます。


 高校のときにこれをやっておけば良かったということはありますか?

 

 今高校生に戻れるとしたら……、勉強をもっとしますね。授業の内容が分からないから、暇で暇でしょうがなかったんです。3年間、昼間の時間がまるまるもったいなかったなと。それはすごく思います。あれ、でもそうすると今とは別の人生を歩むことになって、今の家族や友人にも出会えなかったかもと思うとそれはいやだし……、まあ何が良かったかなんて分かりませんね(笑)。そう言ってしまうと身も蓋もないんですが、勉強も部活も趣味も、「今この瞬間」「今日一日」をせいいっぱいエンジョイしてください!


 さすがにこれはやばかったっていう失敗はありますか?

 

 雑誌の表紙に使う原画(著名なイラストレーターさんの絵でした)を受け取りに行った帰り道に銀行のATMに置き忘れたり、大事な撮影の日に電車を乗り間違えたり、ここではお話できないようなやばい失敗も数々あり、どれがっていうのは選ぶのが難しいのですが(笑)。今パッと思い出すのは、一度保育園を辞めてしまったことですね。娘が熱を出したとき、保育園とちょっとしたトラブルがあり、後先考えず退園届けを提出しました。仕事と育児に追われて疲れ切っている時期だったので、正常な判断ができなくなっていたんですね。撮影や取材、原稿の仕事は今まで通りあるわけで、急遽九州に住んでいる実家の母や義母に娘をあずけたり、家族や友人、たくさんの人を巻き込んで大騒動になりました。なんてことをしてしまったんだと、めちゃくちゃ後悔しましたね。

 

まあでも今から思うと、あの時とことん行き詰まったからこそ、今までしがみついてきたものをいったん手放すことができて、出版社を立ち上げたり、教師という仕事にも巡り会ったわけですから、必要な道のりだったのでしょうね。


 落ち込んだときは、どうやって立ち直ればいいのでしょうか?

 

 おいしいものを食べて、お風呂にゆっくり入って、早く寝る! これにかぎります。落ち込むっていうことは、何かにチャレンジしている証拠です。頑張っている自分に、ご褒美をたくさんあげてくださいね。

エピローグ

心に虹がかかりますように

この小冊子は、2022年に母校の福岡県立東筑高等学校で行った講演を加筆修正してまとめたものです。キャリア教育の一環として行われたイベントです。「卒業生の先輩に仕事についての話を聞き、進路を考えるきっかけにする」という主旨を聞いて、はたして私の人生が参考になるのか? と大きく首をかしげました。

 

私は、ビジネス界でバリバリ活躍してきたわけではないし、就職活動すらまともにしたことがありません。世間一般で言うところの「エリート」ではない私がお伝えできることは何だろう……と考えていたところ、ふと見たNHKの番組で、高校生や大学生の声を紹介するコーナーがありました。「将来に対して漠然とした不安がある」、「未来に希望がもてない」、そしてとくに印象に残ったのが「失敗が怖い」という声でした。不安になるようなニュースが多いから、そう感じるのも無理のないことかもしれませんが、失敗はそう怖いものではないと思っています。私は、平凡な人間ですが、失敗の数だけは人に負けない自信があるんです。失

敗の達人だからこそ言えるのは、「転んでも他の道がいっぱいある」ということです。もうダメだと思ったとき、まずは一服。おいしい珈琲でも飲みながら、周りを見渡してみてください。きっと今までは見えなかった広い世界が広がっているはずです。

 

今回の講演で、こんな人生もあるのかと笑っていただけたら、そして願わくば、心の雲が流れて虹をかけることができたなら、こんな嬉しいことはありません。

 

                        2023年6月 まさ